そして2010年4月に北京で最後にお目にかかったのがまるで昨日のようですとも。
哲真(てっしん)です、宮崎は企画庁時代に政府代表として繰り返し中国を訪れた。
当時の国家計画委員会との交流の中で朱鎔基と知り合い、交流が続く。
1997年当時、日本では首相の橋本龍太郎が六大改革を進めていた。
行政、財政構造、社会保障構造、経済構造、金融システム、教育の 6つだ。
朱鎔基はこれに着目し、アジアの先進国の経験は中国にも参考になると読んだ。
副首相だった朱鎔基は宮崎を北京に呼び、橋本改革について質問攻めにした。
宮崎は特に行政改革で中心的な役割を担っていた。
98年3月、首相に就任した朱鎔基は三大改革を華々しく打ち出す。
行政、国有企業、金融の3つに絞った。
それは日本の改革理念をモデルにしていたが、一段と大胆だった。
中央省庁の人員を半減したのだ。
その後、朱鎔基は再び宮崎を北京に呼び寄せた。
本当にありがとうございました。
1年余りで完成しました。
抵抗はありましたが。
心からの感謝だった。
通訳を介して聞いた宮崎は耳を疑った。
わずか1年……。
そして通訳に聞き返した。
いま首 相はなんとおっしゃったのか。
1年と言わなかったか。
通訳が確認した。
1年余りで完成した、とおっしゃいました。
驚いた宮崎はじっと朱の顔を見返したという。
朱鎔基は弔電でこう述べた。
三十数年の長きにわたり終始一貫して中日経済知識交流会の活動に参加され、中国の地域発展、企業改革、行政改革などに素晴らしい提言をされました。
中国経済の発展に大変大きな貢献をされ、中国人民の尊敬を集めておられました。
最大の賛辞だった。
そして2010年4月に北京で最後にお目にかかったのがまるで昨日のようですとも。
しかし、これは公式の会談の話だ。
実は2人は3年ほど前、本当の最後のお別れをしていた。